10月17日 朝、小雨5:48

 意識的に素直になって行く。

 ”誰かの——いつかの、であっても——言葉”を自分の体に受けるとき、いつも何かを感じているということを、受け入れるようになった。

 手が届く暮らしにおいてその人の声で再生されたり、もっと簡単に音になったりする言葉、でなくても、いつかの、そしていつかの、ではない作品の言葉でも、そこにある言葉がただ蓄積され、忘れて、でも確かにあるんだと勇気づけながらも、もう掘り起こすことができない層になって、諦め、それでも尚蓄積していく、だけじゃなかった。

 私はいまのところ、本をあまり読まないし、映画をあまり見ないし、音楽もあまり聞かない。いまのところで言うと、作品のつくりに興味があるわけではないから、沢山の作品を必要としない。ある作品において、どんなバランスで、物語や音や人物や自然や言葉や社会などの構成要素が織り込まれているのかを簡単に言い切ってしまうこと、そして自信を持って言い切ってしまったことを、言い切るだけで飽き足らず、表にまとめてもっともらしいデータベースを手に入れることに、興味がない。この興味がない、が言えるようになったのは結構前だけれど、それでも10年も経っていない。

 何かを感じ、惹かれて、好きになった作品を知りたいと思うとき、言葉に手触りが生じる。もっと触れたいと、知りたいと思う。

 作品におこすということは、誰かのそういう未来に踏み込む可能性を孕んでいる。

 

 バラエティ番組で芸人が作曲していた。普段作曲しない人が作曲する様子が新鮮だった。情熱大陸Youtube公式チャンネルでヒャダインさんが作曲していた。こういう風にも作れるだろうと予測可能なやり方だった。広瀬香美さんはジングルを作っていた。それぞれ燻ることなく曲におこし、微調整に時間をかけていた。

 私は基本的にはいつまでもおこすことが出来ない。出来なかった、としたい。やっと手触りが生じた。遅い。遅いが。これまで一瞬だけその作品の中に身を置いてはすぐに逃げ帰ってきて、楽しかったいい思い出にしていた言葉を、もう一度読んで感じて、その感じ、に意識的に触れてみたい。まだそんなところにいるの、といつか言えるかも知れない。まだこんなところにいる。仕方ない。大丈夫。

 

 今日は、6〜7年追っていた漫画の最終巻を、帰路の珈琲館で読んだ。その中でも登場人物たちが作品を作っていた。(日記)