3月27日(水)

社会との共通言語を持たないさみしさと辛さは(一人だとひたすらたのしいのですが)いまや計り知れない湖になってしまった。

断罪や線引きが日常であればこそ、この湖には踏み込まれないように、とするつもりが。分からない、と言ってわたし以外がわたしの分からなさを追い、解き明かそうとすることのあまりにも辛く難儀なこと。べつにその行為自体はなんとも思わんが、そっちで勝手にやって欲しい。わたしに興味があるという気持ちをわたしに向けないで欲しい。わたしの湖に無意識に覚悟のない波紋を立てる。その<暴力>に飽き飽きしている。それは途方もない暴力となって現前に立ち現れるから。凡庸さを意識しない凡庸すぎる者が、大量生産型の普通に切れる刃を、影響を想像しないままに振り回す、快楽のために、ひとときの自己利潤のために、忍耐のなさのために。もちろん、わかるから、責めることはできないが、普通に切れるから危ないよ。

 

そういう意味で。職場の飲み会が最もたのしい。

 

今日はIsseiさんとお散歩をして桜を見ていた。神田川沿いに並ぶ木々は、枝先の花が重そうで、風が吹くと不規則に揺れ、暗い夜に薄ぼんやりと浮かんでいた。その景色を言葉にしてしまわずに見ている。わたしは見ているし、わたしなんてどうでもよくって、何かが見ている。そういう気持ちで見ている。何年もあとに、その景色が何かに結実するだろうという予感のなかで、佇んでいる。言葉にしてしまわないということでなんとか保っているのだけれど、それを許さない人の無意識の暴力を、ただ、感じて、見ている。どうして言葉にしなくちゃいけないのか。言葉を求められることが。当然なはずないだろう。腹が立つことなんて基本的には全然ないけど、求められることだけはどうしても受け入れられない。