2020年12月31日(木)

今年の2月末にニュージーランドに行って、とても静かな湖の街、テカポ湖の丘の上の展望台で流れ星を見た。偶然に新月で、偶然にも風が無かった。一人でいて、とても静かで、人がいると聞こえない動物の勘のようなものが腹のそこでキュルキュル言っていた。人が近くにいる安心感と、とても大切な時間を、引き換えにしている。安心感を持つことで果たして本当に安心なのかな。

街を移り、クライストチャーチ で友だち夫婦に会った。コーヒーを飲んだり、タップビールを飲んだり、ジンを飲んだり、よく歩いたりした。2月のニュージーランドは秋口だと思うけれど、何の心配もないからかどんな気候だったか覚えていない。

この12月に彼女たちの子供が生まれて、「あかり」という名前をつけたと聞く。いい名前。遠い街やそこに住む人のことを折に触れ思う。会うことよりも、会わない時に思うことの方が、ずっと身に染みる。どうか健やかに、というこの祈りに似た時間(祈りなのかどうかは分からない)は、偶然にもここ数年持ち続けてきたので、ここ数年と今年とで何か変わったかと問うも、正直言ってあまり変わっていない。多数は変わったらしい。そうなのか。

 

本を読んだりとか、映画を見たりとか、音楽を聞いたりしたとして、何が一番良かったとかなぜ良かったとか、そういう開示が苦痛で一言も言えなくなっているけれど、どんな作品と対峙しても、遠くの街の人や会えない人についてどうか健やかにと思い、もう会えない人について思い出し、今誰も歩いていない湖の街の国道のことを考えている。

 

どうか健やかに。