11月25日 宛てない手紙

そもそもあの子は、分かり合えるなんて思ったことがなく、同時に、「あの子は分かんない子」なんていう本当かどうか分からない線を「そのあの子(あるいはthe boy/ girl)」の目の前で、物事を隠すことを覚えない時分から彼ら(あるいはthey)がザンコクに引いているのを、見ていた。

だから、あの子は今まで丁寧に説明をしようとしなかった。引かれたことになっている本当かどうか分からない線の存在だけ何となく知っていて、周到に用意された落とし穴みたいな、隠されているけれど確かにある異常さについて深く考えて戻って来られないよりは、深く考えない時間に逃げ込んだり、していた。逃げ込んでいる主体は、もちろんIではなく、この宛てない手紙を目にする可能性がある人たちのうちの、全てではないけれど、そのうちの、あの子。

そうこうするうちに、分からなくなる。四方を囲っているように見えるザンコクな線は、彼らが動きやすいように引いた見せかけだと分かっているけれど——では、なら、彼らに、なにから話せばいいんだろう。どこまで話をしたんだろう。何度も繰り返しては——殊、分かりやすさばかりが金を産み、「体系的な説明がつくことに納得がいくI」以外の平行世界(言葉使いに敏感なthe Iはcreaturesと書くでしょうか)が存在しうることを想像できないことが当然であるような今に生きるとしたら、本当に、どうかな、と思っていた。だけど。

それは、壊れたわけじゃなく、きっと、何かを通り過ぎているだけだとしたら、素知らぬ顔で昨日と違う驚きを求め、言葉を使ってあなたに話したり、話を聞いているあなたの顔を見たり、してあるんだかないんだか分からないけどあることになっている水際をパシャパシャと行ったり来たりしていくんだろうと、さて、このパラグラフはいつの間にか私の話ですが、思います。本当はもっと言ってみたいし、9割くらい絶望しても、1割驚きたいくらいには、あの子は絶望に慣れている。絶望の定義は割愛。

 

今年は日常が変わったとか、新しい生活だとか、あったものが壊れたとか、簡単に言われるけど、それこそただの線であって、その線って本当なの、別に綺麗じゃないし好きじゃないし私の引いた線じゃない、そんなものを本当みたいに簡単に本当って言うことができない、元々引かれ続けた線と、あえて強く言うなら成り立ちがそんなに変わらない。

ただし、優しくありたい、好きな人ができれば不意に死なないでほしいとも思うから、絶望に違う質感を覚える/定義が異なるあなたがいる時には、一瞬だけそばにいたい、あるいは私じゃなくても私から離れたいつかの何かや、もちろん私から離れた何かじゃなくても、何か分からないどんな何かでもあなたのそばにいてほしいし、それはきっと壊れない(それがきっと壊れないことを信じていてごめんね)何かだから、そばにいてくれると思うよ。

 

んみたいなのは、しなくてもいい種明かしだけど、そんな。だんだん寒くなってきて近頃、元気? って手紙がたまたまいくつか届くから、元気だよ。ごめんね。(日記)