7月17日(金)

大根、人参、昆布、鶏肉、厚揚げ、里芋、野菜天の全部同じ味煮、これを昼として食べた。会社の裏の立ち食い蕎麦店の弁当販売に並んでいた弁当だった。

私はこのようなぼんやりしたものを作ったことがない。それとも、ぼんやりしているので、作ったことを忘れてしまったのか。作るとしたら、筑前煮のような名前のついたものか、里芋煮、鳥と蒟蒻のかつお煮、大根と鳥と卵煮、のようにせいぜい3種ほどの具材を使ったものか、豚の角煮のように学生さんが大好きなものだ。このようなぼんやりしたものを指す言葉は、煮物。煮物という言葉は、何故か口にするのが恥ずかしいような、ぼんやりした響きがする。この度の煮物の味付けに使っているらしきは醤油と砂糖ぐらいで、大変単純な作りだ。酒や味醂、鰹出汁や昆布出汁を入れることもできようが、今日の昼の煮物、、煮物、、には入っていなかったように思う。ぼんやりして掴みどころのないこのばらばらの選手群と向き合って、探すように、探すように、煮物、、と呟いた。

厚さ7cmばかりに切って、それを半分に切った半円の大根が柔らかく、頼もしく、弁当の色彩に茶色を与えていた。鶏肉、厚揚げ、里芋、野菜天も茶色を与えていた。人参は1本をただの1/4。

深く深く思う、それは長く長く続く、強く強く祈る、そしていつかすべて終える。とは、15年ぶりにきいた、高校のころ友達にCDを借りて良くきいていたANA(アナ)というバンドのアルバムdrillにある、SLOWという曲の一節。最近このCDを改めて買い、この一節のためにこの曲ばかりきいている。15年前と同じだ。10年経っても、続いてくこと、そんなこと分かってるけど、そこから少し離れてみる、とも叫んでいる。

右端にはちょっと硬いままの枝豆の中身だけが20粒ばかりあって、その脇に醤油の袋が据えられている。なんのアイデアもない体で、すべての枝豆を口に運んだ。

ぼんやりした弁当をぼんやり食べながら、元来わたしはぼんやりした人間なので、梅雨早く終わんないかな、とちょっと悲しい感じになって来そうな腹の虫を見ながら、頼もしい大根から滲み出てくる煮汁で喉を潤し、いつまでもぼんやりしていた。(日記)