1月17日(木) それが小説の

ほとんど、でもなく、全くすべての淡いに名前が付けられない
淡いというのは、感情みたいなもので、常に蠢いていて、ないことがない
ないことがないのに、名前が(つけられ)ないから、説明ができないし、説明ができないなんて無責任、いや、無責任? というか、強烈な寂しさが、めちゃくちゃにまぶしい
(寂しさ、辛さは腹の底でつねに動かないもの、湖みたいなものだから、寂しさ湖、辛湖みたいな名前で息を吐くように呼べるけど。それはまた別の話)
でも説明していかなければいけない
名前の付けられなさが小説の一面で、おおきな面で、作り手はそれを編んでいるような気がする(他にも面はある)
ひとつの言葉に今すぐには決められないという態度は、事実ここにあるのだから、どこにでもあるんだろう
ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』を読んでいる
みぞおちの、奥の奥で、えぐるように締め付けられるのは
名前をつけられない人々、しか出てこないから
でもそれぞれ、その名前のつけられなさを信じている、すっくと立っている、でもすごく辛そうだ、寂しそうだ、でも立っている、なんならたまには困ったなって感じでたのしそうだ、信じているから、説明することでしか保てないのだということ

毒、わたしの俗物性を、わたしはもうとっくに倦んでいる
なら、淡いを説明していくしかない、のかもしれない、とまずは一旦してみる


小説、書こうかな