6月27日(水)『スワン666』を観劇、なか

音楽について閃いたことがあって、曲を思いついたのではなく、音楽について思い出したことがあって、気持ちが良かった。風が強かった。

 

少し早くついたから、ガードレールに座って缶ビールをのんだ。閃きの瞬間!  を例えば風で示すならこんな感じ。

いつもより風が強いとか、大雪が降った、とか、分かりやすい違いを感じると、大雑把な性分だから、気分が高まる。猫ちゃんとかワンちゃんも変わった音がすると反応するし、動物だから、わたしも。

 

演劇は刻一刻と変化していくものだけれど、その中でも変化が大きな劇だ。はじまりについて、前はピアニッシモだったのにフォルテッシモではじめた!  音量だけでなく、台詞から台詞に渡されていく抑揚とか、昌也さんの音楽もまるで音色がちがった。調整だけで、あんなふうにべつものになる。

 

劇中で取り上げられている男性の欲情をわたしは知らない。分かろうとしてこなかったから。男性の支配はあからさまに蔓延っていても、いつも一般公開はされてない風を装っている。仕組みにしてしまえば、疑うことにエネルギーと繊細さと時間が必要な場合が多いことを、大体の人が知っている。大体の人が知っているのかな。

 

動物の欲情について、今の東京について、支配、世界を描く前に支配について触れて、うっとりする夢のような美しさには全然届かない。届こうとしている劇ではないけど。

 

 

楽譜に書いてあることを読みながら弾いていくときと、本を読んでいるとき、どちらも、すでに提示されている意味とか景色、年月や感情に耳をすませて、分かろうとするところがとても似ている。だから、本を読むのがすきなのと同じように、楽譜や音楽をわかりたいと思う。

 

本当にそう思うなら、この劇も同じように、ぎこちなさや、一瞬のパッセージや、書いてある意味とか、指示書きとか、今日もまた新しいことが、変わっていくことが、あるかな。

 

なかが過ぎて、いまはさいご、開演前。

 

いそぐこともないけど、いそいで書いて、断片的。