2月5日(月)
なにが始まりで、発端で、キッカケで、どんなふうに同時に起きたり次々起きたり、知らないうちにそうなってしまうか、今はちょっとだけ置いておこうと思うけど、何も読むことが出来ないときがしばしばある
月のうち半分くらいあるかもしれない
なにも読めないときというのは、彷徨いに彷徨っているので、どれくらいそうしているのかも分からない
だから、それが月の半分なのか、殆どそうなのか、実はちょびっとだけなのか、それも本当のところは分からない
だんだん座り方も歩き方も息の仕方も分からんようになってくる
.
Twitterにあるのは、断片の威を借りた最もらしさだ
あそこに文章はうまれない
断片のスピードの本当の魅力というのは、ある
でもスピードを実利のために思うとき、スピードの形だけが残される、そこにスピードはもう、ない
文章はない、
でも断片はあるように見える
そして実は速くもない
とは言え今書いてるこれも文章ではない
論拠が削がれるところに、散文的な何かを文章足らしめる流れはうまれん、
(一般論ではない)
、
節分の日、吉増さんを見に、三鷹SCOOLへ行った
わたしのあたまはその少し前からか、ずっとか、ちょっと判別つかぬくらいボヤボヤしていて、どんな文章にもなっていかないけれど、いつ見てもあんなに速い人
反対に、甘えてる言葉は鈍く、何にもならん白々しいまま
。
こんなにも文章がある、ある、ある、流れているゆるやかな言葉も、ここに留まることのない速い人も、ある、ある、あるのは分かる
柳田國男『孤猿随筆』眺めていてぜんぜん読めん、そっちに身体が行かん
?
今は渋谷で珈琲を前に置いていて、このあと渋谷ユーロスペースに行きます
映画『わたしたちの家』を見に行きます
そんなことはどうでもいいなぁ、、もう
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あるべき位置にいつもからだがあるといい
ホニャララ