8月9日(木)

ひとの話きかなくなるのと、音楽きかなくなるのと、楽譜見なくなるのと、本読まなくなるのがほとんど同時にあった、そうやってやり出してしばらくしたあと、ふりかえって愚行だったなと思う。愚行がつづくと論理は破壊されて、本当のことがわからなくなるもそれすらもわからない、昨日ああだったのが今日こうだと叫んでもなんとも思わなくなるうちに、どんどん狭くなってきて、認めるのが自分の今言うことだけになる。

だからこの腐敗について人ごとじゃないな、といまは思う。ひつようなのは、大きなおおきな歌だろう。今だ動くとき、と思った通りにうごくこと、その根っこに楽譜が、詩が、音楽や本ややさしさ、やさしさというと大きすぎるが、または世界へのまなざし、または何ニャロ、にあふれた、中立に浮かぶことば、ひとりの体を離れたことば、たとえば作品があること。そのことばは尊敬では、わたしにとっては、ない。世界を尊敬することがないように。そうであることをうたうことばを読むとき、そうだなと思う。

論理の皮をかぶった、「論理らしきもの」を突き進める意地の悪い人がいる、とき、そこに世界を見る、読もうとする気持ちはない、ないことにも気がつかない、だから同じ、ちょっと前までのわたしと。愚かだった。

つぐないの、いのりが、ある。