深夜3時の台所

 深夜3時、台所に立っていました。

 深夜3時に台所に立てるのも、もう半月ほどでしょう。冬は寒すぎて。昼も夜も食べなかったので、お腹をすかせて丹波の黒豆を茹でていました。それというのも、朝にドリームコーヒーで卵トーストを頂いたっきり、満足と羞恥と昨日のアルコールと、一向に進まない考えの塊を抱いて、何も食べたくなかったからです。

 ところで枝豆を茹でていました。茹で上がって少し食べました。実家から送ってもらった立派な枝豆は、粒が大きくてぷっくりしており、しっかりと豆の味がしました。4房か5房、食べました。ようやっと体が現実に戻ってきた、と3時の台所は幻っぽい静けさでしたが思いました。調子がついて、そのままきんぴらごぼう作ったろ、ときんぴらを作りました。そうしたら中途なごぼうが残って、これどうすんの、とごんぼさんに言われた気がして、数秒後、たたきごぼうを作り始めていました。もう3時すぎやし、さて、と茹でた豆、きんぴら、たたきごぼうを冷蔵庫に収めようとして扉を開くと、半分残ったカクフがこちらを見つめていました。角麩ちゃん、、。手に取って数秒、パッケージが「お弁当には甘辛く煮て」と言ってくるので、もお~仕方ないな、と笑いながらわざとらしく嘆息をつき、甘辛く煮ました。ふかふかの角麩ちゃんは、幸せそうに醤油の海で浮かんでいました。熟れすぎた柿が、rageな顔をしているので、私も一緒にrageになって剥いて食べました。甘くて甘くて、甘すぎて、何を食べているのか判別がつかないくらい甘くて、急な血糖に脳が痺れるようでした。暴力的な甘さでした。暴力は日常にあふれています。そうと知って行使しているような向きがありました、あの柿には。

 と、いう日記を書きたかったわけではなく、今日はただ、正直で素直で一生懸命な彼女を思い出していた。昔から静かで、賢くて、読ませる言葉を発する彼のことも思い出していた。いつもお世話になっているあの人のことも思い出していた。みんな、自分の持ち場を知っているし、その中で慎ましく努力家だ。私は違う。

 主張は会ったときにたっぷりやればいいし、一生会わないならそれまで、というのに、我慢ができないのはなんでかと言うと、手っ取り早く愛されたいと思うからだろう。得をしたいと思うからだろう。損得で行動するのが身を亡ぼすなんてことははじめから分かりきっているのに、すべての行動の裏側にそれがべっとりへばりついてるその軽薄な愛されたいを私は今すぐに捨てるべきだ、べきだというのにもべしゃべしゃな違和感。

 と、いう主張を書きたかったわけではなく、今日もいい天気でしたね。