翻訳はいかにすべきか 柳瀬尚紀著

>>筆者の場合、翻訳の実践中、意識の奥底で、ほとんど無意識に近いところで、つねになっている日本語がある。『熱風』はその最も強烈なものの一つだ。詩人が発する「いっぱい」という語は、他の語で置き換えることはできない。たんに辞書におさまっている「いっぱい」からはどんなに耳を近づけても聞こえないひびきをこの詩の「いっぱい」は放つ。(中略)

 『熱風』を持出したので、とくに翻訳を志す若い読者に言っておくなら、吉増剛造を読まずしてパワーのある翻訳を実践することができるかどうか、筆者は危ぶむ。そもそも吉増剛造を読まずして翻訳などを志す無謀はやめてほしい。(85ページ)

 

銘肝。

ひびきを殺してしまう基準や判断は、暴力を使ってでも除かねばならない。とは借り物の言葉だけど。

ひびきが聞こえない、と悩んでいる場合ではない。ひびきはそれぞれに等しく聞こえるのだと信じるようになった。聞こえないことにしてはいけない、と近頃そう思う。

言語が違っても、時代が違っても、詩語は生きている。

 

-------

読了。

>>詩人が「さし出すようにして、運ぶようにして、」耳に届けてくれた「翻訳」という言葉を、これからじっくり聴きたい。(あとがき)

あとがきでも再度、著者の吉増剛造に対する畏敬が記され、そうして結ばれている。

ことばに意味がなければ生活できない(かもしれない)けど、わたしもことばと和解し、ことばを音で感じ、体で受け止め、しっかと見つめていこうと思う。翻訳について重要な2つをいつでも思い返したい。ことばの意味より外にある動きに反応できるか、「言葉を曲げても表現しようとする最大の切実さ」を実践できるか。

素晴らしい本で、大変なエネルギーをもらった。からだ中、喜喜喜喜。