9月30日、10月1日『を待ちながら』を見た@こまばアゴラ(断章)

1.https://chelfitsch20th.net/articles/206/

おもろい

ちゅうか、あ、そうそう、そうそうそうそう、そう!そう〜って。いう箇所が多い

いや、ならおもろくはないのか

あ、よかった、って感じか

 

今のチェルフィッチュ見たいな

 

 2.

およそエレファントをモチーフにする作品のほとんどが「論考」の2.1以降3がはじまるまでの像の連呼に触発されてうまれているのではないか、というくらい、そこで像が繰り返されているな。ゾウが繰り返されている。

そういえば昨日見た「を待ちながら」の3回目で、ゾウ(像)とイヌ(存在しない)が比較されていたのは、なにか関係があるのかもしれない。

いや、イヌが居ぬであり去ぬなら、あのイヌ、、存在しないことと死とをその胸に共に抱いてダブらせてダブらせていたいたのか?あのイヌ、、

 

ついでにいえば、あのチョークで描かれた「沈黙」の数々は、境界の「外」を思わせた

外と内、生者と死者、よく考えるということと考えないということ、壁に書かれた「沈黙」は、ここが境界なのだというしるし、又はお札のようなもの

だったのだろうなあ

そう、見得るんだろうなあ

 

沈黙のしるし又はお札が散りばめられて、外と内の境界を示すが、扉は常に開けっ放しで、電車や犬の声など、外がこれでもかと流れ込んでくる、そして曖昧になる、なる、、

 

 そうなったところで

、、男(白)が明かすこと

ここ(内)の天井は棺のフタだよ、、

 

そして完全に(完全に?)ultimately曖昧に

 

外が語ることのない死じゃない、いま内が死だ、いまわたしが死だ

 

内と外は生と死が流れ込んで渦を巻いて逆になって内と外は確かにあるのだけど、逆になって渦を巻いて流れこんで内と外は

 

もつれた糸がほどけない

 

(だんだん歌詞みたいになってきたな)

 

『を待ちながら』を3度見れてよかった

もっと色々あるまだ、まだ響く

読む!と言って本を読んでる