4月10日(金) 欠ける

昨夜もそうだったけれど、夜は少し寒い。4月になってまだ寒いことに安心する。失われずにまだ春の夜。

今日も変わらず、自転車で駆けていく。駆けながら羅針盤を聞いて、くるしくなって(あるいはうれしくなって)泣くなど。文節ほどに区切って何度か言ってみる、それは、こわれた、わけじゃなく、きっと、なにかが、とおりすぎた、だけ。通勤ルートが変わって、前よりも空がよく見える道を行くようになった。だから、ほんとに、きいてくれ、なにも、とくべつな、こと、なんか、じゃないと、おもう。花屋はやっている、やきとん屋は閉まっている、パン屋は閉まっている、串カツ田中は持ち帰りを呼びかける、八百屋は開け放している、車の数は変わらない、ふと思い出すのは8年くらい前と4年くらい前、いつのまにか少しだけ形を変えて、ブランク、意識の網を抜けて、打ち上げられ、る、それは、こわれた、わけじゃなく、きっと、なにかが、とおりすぎた、だけ。

 

朝、ドライカレー。

昼、お弁当に鶏そぼろ、ナムル、かぼちゃのサラダ、蒟蒻の土佐煮

夜、サバ水煮缶、缶ビール。本当は平目のお刺身にうれしい温かいお酒が良かったのに、どこか食べさせてくれる店になんとなく行けないのでサバ缶。悲。

 

さて誰にも会えなくなると、いつも静かで大人しい孤独が、ダブル、トリプル、クアドラプル、生き生きしてひとりでに歩き出す。どんどん増していき、一方で愉快であるが、一方で悲しくもあるような。モノがあってギリギリ保っている。モノがあって良かった。モノを媒介にして、モノへの視線が感じられて良かった。例えば、生まれ、かわる、ところが、どこにでも、あれば、といまここで歌い、いのりの、声、たどれば、すぐに、また、会える、と4年くらい前に歌った記憶を引きずり出して、その時あそこにいた人のこととか、その時楽屋で筆箱を落としたこととかを思って、寝転ぶ。歌や言葉が前よりもモノのようになって、失われずにまだ。

 

 

 

そんなにない人が多くの暮らしを見据えてたくさん出して、結構ある人はほとんど出さない。

大きな感情が当然あるけれど、いまはひとりそのデカさを思うか、見つめること、同時に、過去の同じ悲しみを思い出したり、聞いたり。