2月1日(金) 浅草公会堂

コートのポッケの中に、割れたソフトサラダが入っていた。バス停へと向かう道すがら、ポッケから割れたひとかけらを取り出して、街の音に溶かすように食む、ハムハムハム。もうひとかけら、食む、ハムハム。バス停へと急いでいた。老朽化が進むびっくりガードを、何の気なしに若い人も、老いた人も、歩いたり、自転車を引いたり、ぽけっとしていた。「エアポケットのような采配」

 

浅草行きのバスに乗り込み、窓から明かりを見ていた。庚申塚の商店街は、ずっと奥までカーブしながら街灯が続いていた。王子は人工的なビルが立ち並び、寂れているのに明るくて、荒川の街は体力的にくたびれた感じ、吉原を降りるおじさんやおばさんの背中、汗の匂い。そして浅草へ。行くまでには、うとうと、体の中が冷えて疲れていて、体の中にしんしんと深く雪が積もっていく。湖は。みずうみには誰もいない。石ころは。いしころを投げても返事がない。おじさんが降車ボタンを早く押しすぎた。二度。運転手は壊れたおもちゃみたいに、扉を開けたり閉じたり、プシュプシュプシュー繰り返している。おりますか? おりません。降りますか? 降りません。降りますか? あ、雪は、うん、降ります、体ん中、ふかあいところ。浅草〜浅草〜

 

たんっ

降りて、もう開演時刻。ぐるり、あたりを見回しながら向かう。幾本も商店街が伸びていて、巣穴、スアナを行くもぐら、モグラ

 

するっと会場に滑り込むと、ちょうど1曲目が始まった。いちばん後ろの、いちばん左。弾き語りだからということもあるし、音のバランスがどうだというようなことは全くない。彼女のこえは、多分どこにいても真っすぐに伸びてくる。超えてくる。

 

聖歌か神歌に似ていて、声の届く対象は観客ではない。だから声が伸びたらすぐに、観客もいなくなる。私が子どもなら魔法! と叫んだだろう。ふっ、と消える千人のお客さん。

うたに守られた友だちのうた、と言って歌ううたを、ボロボロボロボロボロボロ。メロディが琴線にふれると、スイッチが入ったみたいに涙がでるから何かの装置みたいだと思うけれど、ポン、はいよっ、と完成させられる類の装置ではない。

彼女は場所、みたいだ。どんどん場所になっていく。一年と少し前に、天王寺アイル、だっけ、そんなような埋立地にある寺田倉庫で見た、アノーニのライブに近い。アノーニも場所のためにほとんどすべて捧げていた。あたりまえのふかあい大きな大きなかなしみ——わたしのからだにもある、みずうみ——まんま、受け入れているからだ、からでる音、はその日その場所の音を受け入れていた。かなしみのおさまる大きな大きなからだ、受け入れて、おいでと言って、やさし、あたためて、返す。仄暗い。彼女もまた、それと同じように、どんどん大きな場所になっていく。

ひとりで立っているけれど、御霊が喜んで飛んでいる。跳ねている。? ないものが見えてもいいじゃない。べつに。見えないふりをしたりして、誰に気をつかってるんだ。ひかりが、生きた熱はもうない、やさしくて仄暗いひかりが、駆けていく。幾筋も幾すじも、震えながら。わたしは、半分のゆめを目覚めながら眺められたから生きていてよかった、と思ったし、ないものたちも、珍しい場所に高揚して、、うん、ただ高揚していた。

ずっとうたっている機械仕掛けの宇宙だけは、物語が緻密で壮大で、だけどたぶん10年分くらいの引いては消して引いて消してした鉛筆の線が残っていた。どんな大きさにも見える。

 

月の丘、ゆめしぐれ、でもやっぱり涙が止まらない。あんまりにもいい夜。小さな部屋で、誰にも気をつかってしまわずに、いつもそこにいて、あるもの、ないもの宿る大きな場所に、自分が、場所であればいい。また思った。

 

浅草についた頃にはもう携帯の電池が1パーセントで、公演が終わっても変わらず1パーセントで、こんなの早くなくなっちゃえばいい、と思った。帰りかたももうわからないから、早くなくなって、でたらめに散歩がしたいと。それで電話をかける。ふだんは電話はほとんどかけないけど、どうしてもかけたかった。0パーセントにしたかった。ひとりの時間をじゃましてごめんなさい。1パーセントつづく。

 

おなかがすいたしちょっとさむいから、赤ちょうちんのお店に入って、お酒を温めてもらった。ヒラメのお刺身ください。温かくて甘い水がからだの下に落ちていく。解けて。白子の天ぷらください。あとお酒。落ちていく。雪は溶けた。

 

あんまりにもいい夜。

南米の小説に似ていた。