吉増剛造展より

ああ、いい日だったと思い出して涙が出ることは、ふつうだった。いま考えても、当たり前のことだ。いつかからsince whenいつかまではtill when、そんなことからも目を背けていたけど、ああ、いい日だったと、駅について、しずかに目が熱くなった。終わってしまったからとか、もうないかもと思うから、じゃない。もっと、ふつうでおだやかなこと。

 

手(身体)で書く、声で書く、幻で書く、手(身体)で書く、声で書く、幻で書く

と、このラインを繰り返しイメージした。

手で書いてもいいんだ、声が連れていくところに行ってもいい、した、した、した、幻を見て帰ってこれないこともありうる強さ、繰り返し繰り返し、ことばに、照準をあわせて、手で書く、声で書く、幻で書く。そんなふうに見た。

 

素手で焔をつかみとれ、とも言った。

 

なんにんもの、やさしくて、すこしこわい声、を聞いた。

わからないという名の銀河を泳いで、渡る、意味なんかない、意味なんかない、今にも僕は泣きそうだよ、わからない、意味なんかない、文字の謡い、謡い、謡い、このザッ、のフランス語の音が実によく日本の風を呼ぶそう思いませんか……。

 

ゆっくり歩く、一瞬をスケッチできるのは、いつもゆっくり歩ける人だけだろうと思う。