読書日記・雑

やっとまた面白い

読むことが

読むのって…

アラン『芸術論20講』(第1講 体系、第2講 情念と芸術)を読んだ。読む、と言って読んだ。今まで私は、文章の中に身を置く、ことしかしなかったなと顧みて。読む、と言って読んだ。

1講、体の動きが想像力と密接に関係しており、その行使を以って、対象に別のビジョンを背負わせるという流れが、芸術の興り、という前提の提示。

2講、1講の流れを経た対象(事物)が美しいのはなぜか、その条件は情念、情動、狂気、雑音を孕むから。自分の内側の狂気をなぞり、訓練によって得られる統御のもとで体の動き(想像力)を行使するとき、対象は遍く雑音を美しく響かせる。

 

以降、各講は「ダンス」「音楽」「絵画」「建築」~~と、 その対象の形式ごとに続いていきます。全20講の美学論です。

読む、と言って読んでいるというのは、文章の形式について読み解こうと思ったので、一文ごとの役割、性格を掬うことで、前提のこと、前文のこと、それを受けての今の文のこと、そして文章のこと、を分かろうとして読むということです。それは、最初から全員そうしているキホンのキだろうけど、それに気が付いちゃった、今、気が付いた、というわけです。キホンのキだから、人から見たらそうだとすぐ知れてしまう、そして私はずっと恥ずかしかった、何も分かっていないということが。何が恥ずかしいのかも、正直分からなかった。

今までしてきた接し方を思うと、どんな景色もどんな詩もほとんど拒まず、そこに身を置いてみる。それで体に印象を、強烈な印象が含む言葉(か音)を、刻む、というやり方だった。それはちっとも悪くない時間でした。

でも今、それだけだと嫌だと、なぜ嫌なのかって、それは言わないけど、そう思いました。

読む。

そしてまた、別の手で人に触れたい。 

敗れても帰る印象の世界が、体が、もう、あるので。

ところでアランのこの本は、主題が美学でデカいというのもあるやろし、美が美たる所以である一つ、雑音を観察できる人なのだろうから、論理というよりは印象を並べているようなところもあり、論文かつかなり詩的でもあるので、読む、というのが結構難しい。

E.M.フォースター眺めのいい部屋』に、暮らすということはバイオリンを演奏するようなものだ、というような会話があったけれど、まあ、割合の問題なだけでみんな、そういうものか。