9月17日『を待ちながら』を観劇した@こまばアゴラ劇場

9月17日(日)
 台風が近づいていた。大型で速度が遅い台風はこの日九州にいた。九州のあと、中国地方、関西、東海、北陸、北海道と進むことになっている、というのを天気予報で見た。のは、前日の朝だったか、少し前の情報で、その日のことはよく知らなかった。
 朝から小雨が降り続いていた。昼には出産間近の友だちと、もう一人の友だちと会った。11月にうまれるのだ、と言っていた。11月にうまれる(と今言ってみた)。
 夜、こまばアゴラ劇場で『を待ちながら』を観劇した。

 ところで、わたしは近ごろ、ずっと死者のことを考えている。

 

9月12日(火)
 それまで秋の気配ムンムンの気候だったのに、この日は夏のぶり返しでとても蒸し暑かったんだった。久しぶりに30℃になり、湿度も高かったんだった。3ヶ月に1度の翻訳の飲み会があり、そこでわたしは周囲に死者のことを聞き込んでいた。死者がテーマの小説は、死者をあからさまにghostとかphantomとか書かない、という助言をもらった。
 山手線のホームで帰りの電車を待つ間に、「生者と死者の境目がだんだん分からなくなってきていて」とわたしは先生に言った。「キチガイだね」と先生はあらぬ方を向いて言った。車内、「わたしは今、こうしてあなたと話しているけど、本当はあなたとは話していなくて、あなたの中の死者を見ているんじゃないかと思うことがある」(実際は、近ごろいつも、常に、そう思うのですが、自他共に傷つけるような気がして言いませんでした)と言うと、目の前の目の大きな女の子はキョトンとしていた。今にも目玉が溢れそうだ、と思った。

 

2016年10月
 ガルシア・マルケスの『族長の秋』を読んでいた。読んでいて、ちょうど読み終わるころだった。マルケスの小説には、幾多数多の死者の声が響いている。埋まっている。じっとり湿度を抱いた土地に、主人公の内省に、牛の涎に、窓から見える美しい女に、今、ここ、が描かれない。今、ここ、だけが生きているということではないと、生者と死者の区別を軽く超えて物語は進んでいく。なあ、と、このころ思っていた。ハッ、と思い出したのだが、近ごろではなく、わたしは死者のことをもうずっと考えている。


 『を待ちながら』から、死者の声がきこえた。体がある、ないということは問題ではない。死者は、友だちに、本に、建物のタイルに、昨日の記憶にも宿って、静かに、言ったり言わなかったりする。言おうと言うまいと、死者の宿る世界はとても静かだ。そこでは感情はもののようにぽん、と置いてしまえる。チロちゃんというネズミは、死んで、ものになり、ぽん、と置かれる。置かれたチロちゃんをわたしは目の前で見たけれど、ライブじゃない、どこか遠くの出来事だと思った。
 死者の気配が濃密でありながら、生きている人がそれぞれ役になって動き回っていた。汗をかいて、音を発して、時にはお弁当を食べて、うんこをして、生きているのだった。生きていることがとても遠く、目の前のことが、いつのことだったけ?と思うと同時に、今思い出すと今なのかもしれない、と思うような。劇だった。

 あと2回見る予定だ。3回かもしれん。

 わたしはここにいるけれど、本当はわたしの直感だけが生きていて、ここに取り残された体が、必死でその速すぎる直感に追いつこうとして、でも、結局体は死んでいるんじゃないかという、直感がした。わたしは特別じゃないのだから、みんな、速すぎる生を追いながら死んでいる、側面もある、と思うと少したのしいのでそういうことにしておく。みんなあらざる者だと。もう少しいろいろあったのに逃げちゃった。

 ずっと死者のことを考えている。

 ヤバいことになってきた。と言ってみるだけ言ってみて。